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Vol.95 福沢諭吉について(10)

J・H のささやき VOL.95 『福沢諭吉について(10)』

                                                  『学問のすすめ』より

『学問のすゝめ』の第8編は、『我心を以って他人の身を制すべからず』です。

『亜米利加のエイランドなる人の著したるモラルサイヤンスと云う書に、人の身心の
自由を論じたることあり。その論の大意に云く、人の一身は他人と相離れて一人前の
全体を成し、自からその身を取り扱い、自からその心を用い、自から一人を支配して
務むべき仕事を務める筈のものなり。
故に、第一に、人には各(おのおの)身体あり。
身体は以って外物に接し、その物を取て我求る所を達すべし』
ではじまります。
 
エイランドとは、ウェイランド(1796~1865)で、アメリカの学者です。
いま読めば、なんだ当たり前じゃないか、となりますが、当時のアメリカには奴隷制
があり、ウェイランドはそれに対して批判的立場で、以上の文を記したのでは?
福沢がそれをさらに孫引きしたのは、当時の日本には、まだまだ封建的な悪しき風習、
悪弊が残っていて、それを指弾し、国民に広く知らしめたかったからだと思います。
 
たとえば男女間の肉体的な差異からくる甚だしい差別とか、子を作らないことは大不
孝とか、当然視されていた世間の見方を転覆させたい、という思い。

今回は、上記の文章の中から、『自分のからだ』について抽出して、考えてみました。
自分の身体は、自分の所有物の基本だ、人間の自由の根本はここにあり、という考え方
を強く広く表明したのは、イギリスの政治哲学者ジョン・ロック(1632~1704)
です。ロックは、近代民主主義思想の開祖です。

当時のイギリスは、現在のような民主制とはほど遠い時代で、圧倒的多数の庶民の生活
は厳しく、労働は苛酷なものでした。
自分のからださえ、自分のものではないような、苦役、労役の日々でした。
自分のからだを維持するためには、つまり生きて行くためには日々の糧を得なければな
らない。
しかし、そのためにはからだを酷使せざるを得ない。
生命を維持するために身体を酷使する。鍛錬ならまだしも、これは矛盾です。
で、当時の人々は驚くほど早死にでした。

そうした中、ロックは、『自分のからだは自分のもの』という人間の基本に立ち返って、
社会のあるべき形を模索し近代市民社会にふさわしい思想を構築しました。
『自己が所有するからだを使って、たとえば無主の土地の果実をとれば、それは、その
ひとのものだ』
 
もっともな考え方で、異論はないと思います。
が、しかし、現在、『自分のからだは自分のもの』という見方が問われているのでは?
あるいは、自分のからだはどこまで自分のからだなのか? という問いかけ。
  
中国の古典に『身体髪膚(しんたいはっぷ)父母にうく、これを毀損せざるは孝のはじ
めなり』があります。
からだや髪、皮膚は親からもらったものだ、だから傷つけてはならない、それが親孝行
の基(もとい)だと。
『自分のからだは、自分のものであると同時に、贈与されたものでもあるから傷つけて
はならない』と解釈できます。
愚生はこの考え方が好きです。
とすると、たとえば、タトゥーは針で文様をいれること、つまりはからだを傷つけるこ
とだからマズイ、ということになりますね。
  
タトゥーは世界の各地にある風習、文化で、個人の自由の領域に属する嗜好です。
民俗学的に言えば、タトゥーは装飾性より呪術性にポイントがある。
魔除け、悪鬼を近づけない、など。
しかし、中国の書物上では、自傷行為で親孝行にもとるから、悪いことになる。
整形も同じですね。 

厄介なのは、医学、医療技術の発展にともなって臓器移植、提供が可能となったため、
人間は新しい難問に直面することになったことです。
生命倫理の問題です。
たとえば、臓器は自分のものだから、『おれは元気だから、金になるなら肺のひとつぐ
らい売ってもかまわない』となるのか?
『おいおい、ちょっと待てよ』と言いたくなりませんか?

臓器移植(提供側に限定します)について、読者はどう思われますか?
 
①自分のからだは百%自分のものだから、自由に扱う権利があり、タトゥーも整形も
OK。いわんや臓器提供は他者への貢献になるのだから、換金という商行為をともな
ってもOK。
②無報酬の臓器提供は純粋な利他行為のゆえに善なる行為(貢献)として容認される。
それに対して、
③自分のからだは贈与されたものでもあるから、自由使用の拡張性には限度があり、
たとえ無報酬の臓器提供であっても容認されない。

とりあえず、以上の考えが浮かんできますが、他にも色々と違った見方があると思い
ます。
現在は②の考え方が、誰もが容認する見方でしょうね。
父親に臓器提供した政治家がいましたね。

『自分のからだ』を導きの糸にしてあれこれと考えてきましたが、混乱して頭が痛く
なってきました。難問で是非を云々できない。
人工臓器が長足の進歩をとげれば、この難問から解放されるでしょうが。
   
頤使(いし)という言葉があります。
ひとをアゴで使うこと、ひとを軽んじることですが、ブラック企業で働くひとは、自
分のからだは、ほとんど自分のもではないな、という思いに沈んでいるのでは? 
自分が所有するはずの『からだ』が経営者によって儲けの手段になり、自己所有の領
域から遊離している。尊厳がおとしめられている。
しゃれた衣服を身につけて、見た目は単純な肉体労働ではないが、その内実は、40
0年前のイギリスと変わりないのではないか?
過労死、過重労働による自殺、こうした報道に接するたびに、経営者の方には、人間
を手段して見るな、目的として見ろ、と苦言を呈したくなります。